一隅を照らす | 天台宗 長福寺|茨城県水戸市

一隅を照らす
~心の中の大切な宝を磨きましょう~

現代日本社会は高度経済成長を経て、科学文明が発達し、物質的には豊かな時代になったと確かに言えるでしょう。しかしながら一方では、現代社会は多様化と複雑化の一途をたどり、人間としての心の豊かさがどこかに置き去りにされてきたのではないでしょうか。

私たちはそれぞれの心の中に仏性(ぶっしょう)という仏さまの性質を持っています。一人ひとりに本来具わっている大切な宝物である仏性を引き出し、磨き上げる行いが大切です。

人間に生まれたことを喜び、受け継がれてきた生命を体してご先祖様や子孫を大切にし、自らも尊い人生を大切に活かそうと精進する人になりましょう。慈・悲・喜・捨の心(仏教では四無量心・しむりょうしんという)で周囲に接することができる人になりましょう。自分の持てる能力を発揮して一隅を照らす人になりましょう。

一隅を照らす実践を通じて、なくてはならない人となり、なくてはならない人を育んでいきましょうというのが『山家学生式』を著した伝教大師の願いであり、一隅を照らす運動の眼目です。そういう心豊かな人が集まれば、平和で明るい社会が実現するに違いありません。

※伝教大師は、比叡山における大乗戒壇設立と人材養成の目的を明らかにするために、天台宗僧侶の修行規則である『山家学生式』を著し、桓武天皇に請願しました。
弘仁9(818)年5月13日に上奏した、六条よりなる『天台法華宗年分学生式』(通称「六条式」)、同年8月27日に上奏した、八条よりなる『勧奨天台宗年分学生式』(通称「八条式」)、弘仁10(819)年3月15日に上奏した、四条よりなる『天台法華宗年分度者回小向大式』(通称「四条式」)を総称して『山家学生式』といいます。

「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す」

道心(どうしん)とは道を修めようとする心、仏教においては仏道を究めようとする心です。この道心をもって生活することができる人が国の宝であると示されています。

例えば、自分の仕事を自己に与えられた天命と心得て、打ち込む人こそ道心の持ち主でしょう。どんな仕事でも、このような人は限りない喜びを仕事の中に見いだし、生き甲斐を仕事の中に感じることができるに違いありません。「自分という人間はいかにあるべきか」を追究し、自己の理想や目標を定め、その実現に向かって努力すること、そのような人生の道を歩む心といえるでしょう。

このような人が国中に充満すれば、国は栄え、社会は浄化され、物も心も豊かになる世界が実現します。したがって、伝教大師の御心は、一個人の完成のみならず、道心ある人々を育成し、国全体、ひいては世界中に及ぶことを願っているのです。

道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」

また、道心について伝教大師は「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」ともおっしゃっています(『伝述一心戒文』巻下)。

道心がなければ、いくら恵まれても無意味です。道心があればこそ恵まれた心と生活になるといえます。

真剣に道を求め、その道に打ち込む人は、生活が成り立たないはずがありません。必要最小限の衣食住は自然と備わります。しかし、衣食住に執着し、ぜいたく三昧の生活を志向する人は、私欲に心が奪われて仕事もなおざりとなり、道心は湧いてくるものではありません。

「衣食足りて礼節を知る」(生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえられるようになる)という故事成語があります。もし衣食が足りなくなり、生活に困る事態になってしまったら、礼節を忘れる心になるのでは、人間としていかがなものでしょうか。

また一方、今日の日本では科学技術の進歩や高度経済成長を経て、衣食住の基本的な生活条件が満たされているはずですが、物の豊かさとは裏腹に、心豊かな人間性というものが置き去りにされるような時代になっていないでしょうか。

伝教大師は、「道心の中に衣食あり」と、裕福や貧乏にかかわりなく、いかなる事態にあっても、どんな職業であっても、目の前の利益にとらわれることなく、道心をもって生活することを説きます。人間は動物と違い、自分の欲を管理する知恵をもっています。ただお金のために、物のために生活しがちな現代人や現代の物質文明社会への警鐘ともいえるでしょう。

伝教大師のおっしゃるように、自己を高めて道を修めようとするには、まずは自己を謙虚な姿勢で振り返り、心を柔軟にするための覚悟や戒めを持ち、努力することが大切なのです。

径寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ則ち国宝なり」

「径寸十枚」とは金銀財宝などのことで、「一隅」とは今自分がいる場所や置かれた立場を指します。

お金や財宝は国の宝ではなく、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代えがたい貴い国の宝なのです。

演劇の舞台も主役以外に脇役や裏方など、たくさんの役者がそれぞれの担当をしっかり果たしてこそ、観客が満足する舞台を上演することができます。また、国も総理大臣だけで成り立っているのではありません。国民一人ひとりが持ち場を守り、仕事をしっかりとすることによって国が成立しています。

会社における上司と部下、家庭における親子の関係など、それぞれにおいて使命を自覚し、自分の仕事や生活に励むことが人間としての基本です。

一人ひとりがそれぞれの持ち場で最善を尽くすことによって、まず自分自身を照らします。そしてこれが自然に周囲の人々の心を打ち、響いていくことで他の人々も照らしていきます。そうしてお互いに良い影響を与え合い、やがて社会全体が明るく照らされていきます。

「一隅を照らす」ということは、各々の仕事や生活を通じて、世のため人のためになるように努力実行することで、お互いが助け導き合い、あたたかい思いやりの心(仏心)が自然と拡げられていくのです。

悪事を己に向かえ好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」

私たち人間は往々にして自分本位に考えてしまいがちです。しかし、自分のことはさることながら、他の人のために尽くすことが最高の慈悲であると、伝教大師はおっしゃっています。

自分自身が幸せになることももちろん大事ですが、周りの人々も幸せを求めているに違いありません。周りの幸せのために生きることが自らの幸せであり、お互いがお互いの幸せのために力を出し合ってはじめて世の中みんなの幸せが得られるのではないでしょうか。

実は、一隅を照らすということ(自行)と、他のために行動すること(利他)は、表裏一体なのです。自分の利益を顧みずに他のために全力を尽くせば、皆が「あの人は立派だ」ということで、厚く信頼されるでしょう。みんなが感謝と尊敬の念を持つことでしょう。これは「照らす」行いの反射です。照らさなければ反射は起きません。結局、一隅を照らすということは皆の模範となり、鏡になることです。

伝教大師は比叡山に「不滅の法燈」を灯され、1200年の時を経て今日まで連綿と受け継がれてきました。この不滅の法燈のように、各自の心の中に慈悲の光を持ちましょう。自分を燃やしながら光っているロウソクのように、我が身を燃焼し、自分の使命を達成するために一所懸命に努力しましょう。このひたむきな努力が光を発するから、皆がその光を慕い、集まってきます。今度はその集まった人たちが、それぞれ灯火(ともしび)となって輝き、その光が集まって膨大なものになり、必ずよい世の中になると説かれています。

※「己を忘れて他を利する」という忘己利他(もうこりた)の精神を私たちの日常生活で発揮し、大勢の人々の心に確実に溶け込ませていくことは、安心(あんじん)にあふれる平和な世の中(仏国土)の実現に繋がることになるのです。